帝劇の沿革History
女優劇、オペラ、新劇……。新時代の幕開け
開場当時の話題は、帝劇付属技芸学校を卒業した女優たちの演じる益田太郎冠者作の「女優劇」だった。ヒット作『ドッチャダンネ』は他の劇場でも改題して上演され、主題歌「コロッケの唄」も大流行。『女天下』『ラヴ哲学』なども評判。女優劇の歌と踊りの魅力は残された活字では理解できない。豪華な装置の前でのフィナーレの総踊り、森律子が手鏡を日本初の調光器を使う照明を当てて客席に返しながら、歌う魅力。女優劇の「洋行喜劇」の「世界めぐり」の手法や、狂言回しの口上役、三枚目役の設定は、後の宝塚歌劇でのレビュー、「浅草オペラ」や軽演劇にも影響を残した。宝塚初の東京公演も1918年の帝劇。
イタリア、イギリスで活躍した振付師で、帝劇歌劇部を指導したジョバンニ・ローシーも重要人物。歌劇部は洋劇部と改称し16年に解散するが、ローシー門下の人々は浅草オペラや多くの歌劇団で活躍した。多くの聴衆に生涯の思い出を残したイタリア、ロシアなど海外オペラや著名音楽家のリサイタルも帝劇名物。また、三浦環出演の日本初の創作オペラ『熊野(ゆや)』や、文芸協会『ハムレット』『人形の家』、自由劇場、松居松葉と河合武雄の公衆劇団などの翻訳劇上演など、この時期の西洋文化受容において帝劇の意味は語りつくせない。歌舞伎では多彩な古典演目のほか、作者・が佳作を残し、幸田露伴『名和』も15年の初演後、何度も上演された。十三世守田勘弥の文芸座の意欲的試みも貴重。
多彩なプログラム。スピードの時代
関東大震災後再開場した第二次帝劇。女優劇後期の代表作『高速度喜劇』では「文化は即ち速力とも申されます」というせりふが入り、森律子が猛スピードで口上を述べるのがモダニズムのスピードの時代の流行だった。大河内伝次郎までが『高速度剣劇レヴュー』を上演。この時期、益田太郎冠者の『月給取』という作品があるように、女優劇は都市にサラリーマンが増える時代をよく映している点でも貴重。帝劇株式会社は1929年に解散し松竹が興行を担当するように。益田も劇作家を引退、女優も個別の活動に入る。
著名外国人音楽家の再来日、スペイン舞踊のアルヘンティーナの公演が話題となるのは、日本でも「新舞踊運動」が盛んな時期。大阪の河合ダンス公演も人気。新国劇と築地小劇場も、帝劇向きではないが好評。歌舞伎では六世梅幸が『土蜘』などの名品を見せた。25年NHKラジオ放送開始では試験放送が帝劇から行われ、27年6月の『お富と与三郎』で劇場中継が始まるのも新時代を実感させる。31年には日本初の本格トーキー映画「マダムと女房」の帝劇封切りが映画史に残る話題。その後は洋画封切り館となるが、小林一三が日比谷・有楽町の興行街を作り帝劇は東宝に移る。小林の念願「東宝劇団」が結成され、「東宝国民劇」の公演も行われた。一方、40年から42年3月までは情報局庁舎として使用され、44年3月には「決戦非常措置令」で帝劇をはじめ全国の主要19劇場が閉鎖。帝劇も防衛局庁舎に使用される厳しい時代となった。
復興へ。帝劇ミュージカルスの光
1952年までは第二次大戦後の米軍による占領期。戦後初公演が、六世尾上菊五郎主演の『銀座復興』なのも、当時は古典歌舞伎の上演が制限された困難な時代を感じさせる。宝塚歌劇が多いのも、当時は東京宝塚劇場が「アーニーパイル」と名称変更して接収されていたためである。戦後まもなく新劇や前進座が続くのも、時代を感じさせる。
邦楽、邦舞、歌劇、クラシック音楽に、当時は貴重な関西歌舞伎の数度の公演、珍しいものではジョセフィン・ベーカーの来日公演から浪曲大会まで。しかし、この時期最高の話題は、秦豊吉による「帝劇ミュージカルス」である。越路吹雪主演の『モルガンお雪』(脚本=菊田一夫)、『お軽と勘平』『マダム貞奴』等々の舞台の楽しさが、どれほど、あの時代の東京の人々の心を和ませ、弾ませ、楽しませただろう。映画の「おかる勘平」(マキノ雅弘監督/52年)や成瀬巳喜男監督の「舞姫」(51年)のバレエシーンは当時の舞台をしのべるだけでなく、当時の帝劇の内部や楽屋、豪華な客席、喫茶室までが見られる貴重な映像だ。
日劇でのレビューとともに、後の東宝ミュージカル路線につなげる重要な役割を果たした秦が56年に、東宝の総帥・小林一三が57年に没し、時代も変わる。テレビが家庭に普及し、映画が全盛を過ぎる時代、帝劇の興行も姿を変えた。どこでも味わえない帝劇の立派な空間での映画見物の記憶を、多くの著名人が懐かしく回想している。帝劇でシネラマの大画面を見る迫力は、家庭に浸透してくるテレビにはない圧倒的な魅力を人々に与えたのだ。
菊田一夫が築いた現代。続く変革と前進
現在の第三次・帝劇の開場の時代。開場の二世中村吉右衛門襲名は、旧帝劇との記憶をつなぐ役割をも果たすとともに、新時代のスターを披露する意味も込めた公演だった。続いて、新帝劇の中心的存在である菊田一夫念願の『風と共に去りぬ』が開幕。当時の常識を超えた豪華な配役とスペクタクルの魅力は、1960年代の演劇の大きな一面を形成する。続いて『ラ・マンチャの男』『屋根の上のヴァイオリン弾き』など、何度も再演された名作ミュージカルが続く。新作から古典までの帝劇歌舞伎の試みから、世界文学や映画の傑作の劇化作品、そして帝劇にふさわしいスケールの「グランド・ロマン」の新作などが、当時の時代の多彩さを色濃く感じさせる。「日本美女絵巻」シリーズの山田五十鈴はじめ山本富士子、京マチ子、司葉子、美空ひばりら、新しい「女優劇」の隆盛は、かつての銀幕の大女優を生の舞台で見る魅力と切り離せない。映画と演劇の最後の幸福な融合の時代だった。
だがそれも73年の菊田一夫の死とともに徐々に変わる。77年に「アンダーグランド演劇」の蜷川幸雄が『三文オペラ』で帝劇初演出。その後の秋元松代作『元禄港歌』『近松心中物語』やシェイクスピア作品での蜷川演出は、70年代の時代を映す演劇を実感させる大きな話題だった。菊田と蜷川という対照的な60年代の演劇の両面をつなぐ役割を果たしたということでも、この時代の帝劇というステージの存在の意義と大きさが実感される。
出典:「帝劇ワンダーランド」
そしてこの度、帝国劇場が入居する帝劇ビルが閉館ならびに再開発を迎えることを発表いたしました。
東宝演劇部が標榜する、〝大衆性と芸術性の融合〟のモットーの元、110年を超える帝劇の灯を絶やさず、
輝ける未来に向かって進化する新帝劇をお客様にお届けすることが、私たちの大きな使命となります。
現帝国劇場の2025年大千穐楽まで、どうぞ変わらぬご支援を賜り、新劇場の誕生をご期待くださいますよう心よりお願い申し上げます。